1.喫茶「両忘」

朝の七時、商店街はまだ眠りの中にある。シャッターの閉まった店々が並ぶ中、一軒だけ灯りの点いた店がある。喫茶「両忘」である。

店の扉が開き、四十代の女性が姿を現した。黒のワンピースに白のエプロン、胸元で結ばれた細いスカーフが風に揺れる。髪は肩につくかつかないかの長さで、きっちりとまとめられている。化粧は薄く、しかし確かな存在感を放つ顔立ちは、通りすがりの者の視線を一瞬だけ捉えて離さない。

彼女の名は加納澪。この喫茶店の店主である。

澪は店の前に立ち、深く息を吸い込んだ。朝の空気は澄んでいて、これから始まる一日の予感を含んでいる。手にした箒で歩道を掃き始める。落ち葉や紙くずを丁寧に集め、決して急ぐことなく、かといって無駄な動きもない。

掃除を終えると、店内から取り出した真鍮の水差しで、入口脇に置かれた植木に水を与えた。水は土にしみ込み、植物は僅かに葉を震わせる。この仕草も毎朝の儀式のようなものだ。澪は水差しの底を軽く叩き、最後の一滴まで植物に与えてから店内へと戻った。

喫茶「両忘」の内装は、一見すると質素に見える。木の温もりを感じる床と壁、年季の入ったカウンターと十脚ほどのテーブル席。しかし、よく見ると随所に店主のこだわりが見て取れる。

カウンターの後ろに並ぶ珈琲豆の瓶は、すべて同じ大きさで統一されているが、その中身は実に様々だ。各瓶にはラベルが貼られ、産地や焙煎度、収穫年まで細かく記されている。その隣には、ハンドドリップ用の道具が整然と並べられている。銅製のケトル、様々な形状のドリッパー、温度計、タイマー。すべてが使い込まれた風合いを持ちながらも、手入れが行き届いている証拠に艶やかな輝きを放っている。

壁には珈琲に関する古い地図や、豆の生育過程を描いた図版が飾られている。それらは装飾というよりも、資料としての意味合いが強い。

澪はカウンターの中に立ち、開店準備を始めた。まず、グラインダーを取り出し、今日使う豆を挽く。その音が店内に響き、朝の静けさを破る。彼女の動きには無駄がなく、長年の経験から来る確かな所作が見て取れる。

豆を挽き終えると、次は湯を沸かす。温度計を見つめる眼差しは真剣そのもので、ある特定の温度に達すると、すぐさまケトルを火から下ろす。その温度は季節や天候、使用する豆の種類によって微妙に異なるのだが、澪はそれを感覚的に把握している。

開店時間の三十分前、澪は自分のための一杯を淹れ始めた。これも毎朝の儀式だ。ドリッパーにフィルターをセットし、挽きたての珈琲粉を入れる。そこに湯を注ぐ際の彼女の表情は、普段の無表情とは打って変わって生き生きとしている。湯を注ぐ手首の動きは繊細で、まるで楽器を奏でるかのようだ。

珈琲が抽出され、カップに注がれる。澪はそれを両手で持ち、まず香りを確かめる。目を閉じ、深く息を吸い込む。その表情には、ほんの僅かな笑みが浮かんでいる。そして一口。彼女の世界はその瞬間、珈琲だけになる。

「今日も良い一日になりそうね」

独り言を呟き、澪は開店の準備を続けた。

開店時間の八時、澪は扉の鍵を開け、「OPEN」の札を掛け替えた。最初の客が訪れるまでの間、彼女はカウンターに座り、珈琲に関する専門書を読んでいる。それは南米の小さな農園で栽培される希少な豆についての本で、澪は時折メモを取りながら、熱心に読み進めていた。

九時を過ぎた頃、最初の客が訪れた。ドアの上の鈴が小さく鳴り、澪は本から顔を上げた。

「いらっしゃいませ」

その言葉は決して愛想が良いとは言えないが、かといって冷たくもない。淡々としていて、しかし確かな存在感がある。

入ってきたのは、この店の常連客の一人、佐々木という名の老紳士だった。定年退職した元高校教師で、毎朝の散歩の途中にこの店に立ち寄るのが日課となっている。

「おはよう、加納さん。今日も良い天気だね」

佐々木は窓際の席に座り、新聞を広げた。注文を聞きに行く必要はない。彼が注文するのはいつも同じ、ブレンドコーヒーである。

澪は黙々と珈琲を淹れ始めた。佐々木のために選ぶ豆は、やや深煎りのものだ。彼の好みを知っているからこそ選べる配合で、澪はドリッパーに豆を入れ、湯を注いでいく。その手つきは先ほど自分のために淹れた時と変わらず、真剣そのものだ。

出来上がった珈琲をソーサーに乗せ、佐々木の元へ運ぶ。

「お待たせしました」

佐々木は新聞から顔を上げ、珈琲の香りを楽しむように深く息を吸った。

「ありがとう。相変わらずいい香りだ」

澪は小さく頷くと、カウンターに戻った。

時間が過ぎ、店内には徐々に客が増えていく。近所のOLや、リモートワークをする若者、退職した老夫婦など、様々な客が訪れる。澪は一人一人に合わせた珈琲を淹れていく。注文を受けると、その客の好みや、その日の気分、さらには天候までを考慮して豆を選び、抽出の仕方を決める。

ある客には酸味の強いエチオピア産の豆を使い、別の客には重厚な味わいのグアテマラ産を。水温や抽出時間も微妙に調整する。そうして出される珈琲は、同じメニュー名でも客によって少しずつ異なるものだった。

「加納さん、この前とはまた違う味ですね。でも、今日の珈琲もすごく美味しいです」

そう言った女性客に、澪は小さく頷いただけだった。言葉で説明することはない。彼女にとって、珈琲が語るべきことを代弁する必要はないのだ。

昼過ぎ、一時的に客足が途絶えた時間帯に、澪は新しく仕入れた豆の試飲を始めた。コロンビアの小さな農園から直接取り寄せたもので、まだメニューには載せていない。

彼女は様々な抽出方法を試し、味の違いを確かめていく。一杯目はやや粗めに挽いた豆でペーパードリップ。二杯目は細かく挽いてエスプレッソマシンで。三杯目はネルドリップで。そして四杯目はサイフォンで。

それぞれの味を確かめ、メモを取る。その真剣な眼差しは、まるで科学者が実験をしているかのようだ。

「まだだわ」

澪は呟いた。この豆の最高の味の引き出し方をまだ見つけられていないのだ。彼女は納得がいくまで、何度でも試す。それが珈琲に対する彼女の姿勢だった。

夕方になり、再び客足が増えてきた。その中に、いつもは見かけない顔があった。三十代半ばくらいの男性で、少し疲れた様子の会社員といった風貌だ。彼はメニューを長い間眺めていた。

「何にしますか」

澪が尋ねると、男性は少し戸惑ったように答えた。

「あの、普通のコーヒーをお願いします」

「普通のコーヒーというのは?」

「えっと、ブレンドで」

澪は少し考えた後、「少々お待ちください」と言って、カウンターに戻った。彼女は初めて来た客の「普通のコーヒー」という注文に、特別な注意を払う。なぜなら、その「普通」が何を意味するのかは、人によって大きく異なるからだ。

彼の服装、表情、声のトーン、座り方。そういった情報から、澪なりに彼の好みそうな味を推測する。そして選んだのは、やや軽めの口当たりながらも、後味に深みのあるブレンドだった。

珈琲を運び、男性の前に置く。彼は一口飲んで、少し驚いたように澪を見上げた。

「これ、とても美味しいです。普通のコーヒーなのに、こんなに味わい深いなんて」

澪は小さく頷いただけだった。彼女にとって「普通のコーヒー」などというものは存在しない。すべての珈琲には個性があり、その日その時、その人に合った一杯があるだけだ。

店内には、珈琲を楽しむ客たちの静かな会話が流れている。澪はカウンターから、その様子を見渡した。彼女の店では、珈琲以外のメニューは極めて限られている。トーストやサンドイッチ、簡単なケーキ類があるだけだ。それも、珈琲を引き立てるためのものであって、主役ではない。

「加納さん、このケーキ、前より美味しくなった気がします」

常連客の一人がそう言うと、澪は淡々と答えた。

「作り手が変わりました。前の店が閉店して、新しい店から仕入れています」

「そうなんですか。でも、よく似た味ですね」

「珈琲に合うものを選びました」

それ以上の説明はない。澪にとって、珈琲以外のことは必要最低限で十分なのだ。店の内装も、食器も、BGMも、すべては珈琲を最高の状態で提供するための脇役に過ぎない。

閉店時間が近づき、最後の客が帰った後、澪は一日の締めくくりとして、もう一杯の珈琲を自分のために淹れた。朝とは異なる豆を選び、異なる抽出方法で。一日の終わりにふさわしい一杯を。

その珈琲を飲みながら、彼女は今日訪れた客たちのことを思い返す。彼らの表情、言葉、仕草。そして彼らが飲んだ珈琲の味。すべてが彼女の記憶に残っている。

明日はどんな客が訪れるだろうか。どんな珈琲が彼らを待っているだろうか。澪はそんなことを考えながら、最後の一滴まで珈琲を味わった。

店の灯りを消し、鍵をかける。澪は一日の終わりを告げるように、深く息を吐いた。明日もまた、珈琲と共に始まる一日が彼女を待っている。

喫茶「両忘」の扉が閉まり、商店街は再び静けさに包まれた。

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